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「品質」という概念の価値が相対的に下がっている

ひさしぶりにまじめな長文。

ここ2ヶ月ほどニコ動にネタ的からまじめ技術動画まで、色々と映像を放り込む実験をして遊んでた。

品質をともなった画像の再生数が160回で打ち止めだったり、逆に勢いだけのものがたった1日で1000~2000再生を記録したりするのが面白い。どこにも告知しないで1日2000再生いくってのは、作品発表のプラットフォームとしはモノスゴイなとびっくり。同じモノをようつべに投稿したら、たったの6再生とか17再生だったのに。。

ようつべとかニコニコとかWEB2.0とかセコンドライフとか、その辺諸々を語ってるメディアやブログの人の情報って、基本的に自分で投稿したり、アバター作ったり、サービス作ったりしたことない人が書いてる。だからあまり信用ならないっつーか、表層の事象をそれっぽく解説してるだけで、本質からズレてることが多い気がする。何事もやっぱ自分でやってみないとアレだなぁと実感。

ちなみに、セコンドライフとかは1万円出して、土地買って遊んでみたけどアレは本当に金の無駄だった。流行る要素がどこにもないだろセコンドライフ。

で、ここから本題。


僕がニコニコを弄ってて顕著に感じたことが、「品質という概念」の希薄化。つまり、従来のメディアと比べると、コンテンツの品質と評価・拡散がかならずしも相関関係をもっていないことが多いという点。

傾向としてプロフェッショナルほど、この点を持ってしてニコニコ(というかCGM全般)を低く評価する。ニコ動にあるモノはショボイ、という話になる。ちょうどそこら辺とかMediaSaborで論じられてる。

ニコニコを弄くって興味深く思ったことは、プロが自身の存在利用にしている「品質」という概念が、今後もその価値を維持できるのか?ということだ。もっと言うならば、コンテンツの「品質」は、どういう理由で経済的な価値があるのか?そしてそのルールは永遠に普遍的に機能するのか?ということ。

僕の私見になるが、コンテンツにとっての品質という概念の価値は、「品質の高い商品はより多くの人間の注意を引く、興味を喚起する」という点にある。つまり、品質が高ければ高いほど、多くのユーザーがそのコンテンツを高く評価する可能性が高まるということだ。リーチ率に直結している。それが品質の機能であり価値。

つまりコンテンツの「品質=価値」という原則は、「顔の見えない大多数の大衆に対し情報発信しコミュニケーションしリーチする必要がある」、という前提があって初めて成立する。

逆を言えば、パーソナルなコンテンツになればなるほど、品質というツールに頼る必要なしにユーザーを喚起できる。 運動会の動画とか、学際バンドの演奏などはその顕著な例だ。品質をともなわなくても仲間内では十分に受け入れられる。 

ゆえに、ネットや携帯電話等によって特定のコミュニティへのピンポイントなリーチが可能になればなるほど、「品質」の持つ、不特定多数にリーチさせる機能の必要性はなくなっていく。つまり品質という概念の価値が相対的に減少していく。こういう現象が、現在ネット上で徐々に起こり始めているのではないか?というのが僕の考え。

芸術的な映画や音楽会や絵画のようにそれそのものの鑑賞の主目的にとなるコンテンツ、あるいはファッションや車のように社会的階級やセックスアピールとして機能する、自己プレゼンテーション用の装置においては「品質」というものは、今後も機能する。

一方で、カラオケや話題、ネタレベルのコンテンツ、そして社会に露出する必要のない狭いコミュニティ(2chやニコニコがその象徴)上でのコンテンツほど、品質以上に「即時性」、「コンテクストへの非依存性」、「会話の誘発性」、「突っ込まれビリティ」などの価値が上昇していく。結果、コミュニケーションの踏み台にすぎないコンテンツでは、品質の価値が限りなく0に近づいていく。そういう意味で脳内メーカーとかは象徴的だった。場合によっては、今後は「品質」というのが、表層の精緻さからコミュニケーションを誘発させる装置としての完成度という意味へと変貌してくのではないかと思う。

で、なにがいいたいかというと、つまり新聞やTVがブログや携帯、ようつべといった低品質コンテンツに食われていってる現在、アートやデザインだけはその例外でいられるのか?ということ。「品質」がいいものを作りさえすれば評価される食っていけるという前提は、今後100年通用するルールなのか、そこを無批判に信奉することでなんか思考停止が起きてるのではないかということ。

万が一、 マス配信から品質の必要性が抜け落ちたりした場合、品質を維持する為にはそれこそ中世まで逆戻りして、品質が高いという嗜好をもったパトロンに提供する為のパーソナルなメディアにもなりかねないような気もする。

「低品質=ショボイ」というロジックは、あくまでマスコンテンツの価値観だ。それをもってクローズドコミュニティのコンテンツの可否を問うことに、どれだけの意味があるのだろうか。「品質」という概念機能しているのは、今現在マスな文化圏がクローズドな文化以上の力を持っている段階だからに過ぎないのでか、ということだ。

文明が発達し、コミュニティが細分化され、多コミュニティと関係をもたないで生きていけるようになればなるほど、共通認識としての品質の価値は減少し、コミュニティ毎の嗜好が品質と置き換わっていく。

こうなると、コミュニティを超えてリーチするものを作ることが不可能になってくる。その結果、特定の層への訴求に特化したプロフェッショナルの台頭や、そのコミュニティで成功した野良コンテンツを流通にのせる手法、あるいは分散投資によって確率論的にヒットコンテンツを育てあげる手法が主流になっていくのではないだろうか。このようなステップに到達すると、ヒットメーカーや敏腕プロデューサーという人種はおそらく存在できない。かわりに誰もが一発屋。いいモノを作るのではなく、いいモノができたら拾い上げるというふうに推移していくだろう。5年単位か数十年単位かは知らないけど、極論的には時代はそういう方向に進行していっていると思う。

個人的には品質がいいほうがよいとは思う。しかしよいと思うことと、それが今後も機能するかどうかは別の問題だよなぁ、とか思いながらビール飲んでる。人生って大変だよなぁ。
そんな雑感。