電車の中で携帯小説を一冊通しで読んでみた。
世の女の子達が、いわゆる浮気セックス妊娠エイズかつ稚拙な文章の、どこにリアリティを感じるのか気になったからだ。
読んだ結論からいうと、どうやら携帯小説にもリアリティというものはある。
普段本を読む人間は、描写やストーリー、世界設定にリアリティを求める。しかし、携帯小説のリアリティというのはそこにはないのではないか。
携帯小説のリアリティは、おそらく「電車男」のリアリティに近い。それは普段コミュニケーションに使っているメディアを通して送られてくる、疑似体験としての物語だ。
携帯小説の文体や表現手法、表現力は友人から送られてくるメールや、mixiの日記と大差がない。それを僕達は表現力の欠如と考える。しかし、彼女達からすれば携帯小説は、擬似的な親友、擬似的なクラスメート、擬似的な自分の行った体験を仮想的に体験する為の装置として機能しているのではないだろうか? そう考えれば携帯小説の多くが一人称であることも、登場人物や風景を記号的な方向に進化することも理に適っているし自然に思える。また携帯で打つメールで事細かに抽象表現や長ったらしい文章を書くことは逆にそれ自体がリアリティの欠如である。そしてレイプにしろ妊娠にしろエイズにしろ、女と恋愛を取り巻く諸要素の仲で疑似体験しにくいものリスクの高いものほど、題材とする意味がある。
こういう読み解き方をすれば、携帯小説はそれなりに奥が深い現象なのかもしれない。諸小説そのものは「つまらない」の一言だったけど、小説をとりまくムーブメントそのものは非常に興味深い。
携帯小説が疑似体験のツールだとすれば、いがいと女子高生向けのコンテンツに、ゲームブックとか流行るんじゃないかな。あと瀬戸内寂聴さんに惚れ直しました。