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痛覚のないスーパーマッチョマン

インターネットの身体拡張性について考えている。
といってもARのような仮想現実の話ではなくて、もっと泥臭いことのメモ。

身体性とフィードバック
例えば、現実世界で、大きなリュックを背負ってみる。
すると身体のアタリ判定が巨大化する。
不用意に振り向くと、誰かを跳ね飛ばしたり、壁を削ったりしてしまう。
階段を使うときも慎重になる。
背後に小さい子供がいると、死角になってとても危ない。

色々と注意が必要だけれども、そういった危険性はなんとなく予測できる。
事故はおこるとしても、大抵がはじめてか、注意を怠ったときだけだ。
いつもよりバランスが取りにくいとか、慣性が働きすぎるとか、そういった身体的なフィードバックがあるからだ。

抽象化されすぎた体験
一方でネットやアプリのインターフェースなどを見た場合、どうだろう?
そういったネガティブなフィードバックは、「不快」や「不便」や「カイゼンの対象」として、むしろ積極的に取り除かれてしまっているように思える。

はたして「ただ愚直にシンプルに、クリーンに、スマートにしていけば品質は向上する」というのが命題として正しいのだろうか。

あまりに洗練されすぎたサービスを使っていると、ときおり自分が「切っても痛くないナイフ」や「熱さを感じない炎」のような不気味なモノを弄くっているような気もしてくる。

不快は生存戦略
そもそも不快や恐怖といったものは、生存戦略の一部で、危険を知らせるはずの装置だったはず。
子供はナイフの鋭さを自身の手を切って憶える。
火の危険さを火傷をして学習する。
そういった重要なフィードバックが、いつの間にか忌避すべきモノ、隠蔽されるべきモノとなってしまった。

インターフェースのフィードバックは、射幸性や気持ちよさを追求する方向に特化し、負のフィードバックのなくす方向に進んでいる。
この直感的な負のフィードバックがないことが、昨今のインターネットの炎上や犯罪告白、プライベート写真流出に繋がっているのではないか?


痛覚がないということ
痛覚のない人間は、現実と非現実の境界が曖昧になるのだという。
昨今のネットにおけるトラブル、特にライトユーザーによるトラブルはここに原因があるような気がする。

ある操作に対して「これは危険なことかもしれない」という直感的なフィードバックがない、そのことが様々な悲劇の原因ではないのか。
適度な「危険の気配」が隠蔽されていることが、ネット初心者を無謀なまでに不用心にしているのだろう。

だから自分にはインターネットは、「痛覚をなくしたスーパーマッチョマン」を作り出すクスリのようにも思える。
人間の能力を拡張するが、そのリスクが隠蔽されている装置だ。

使い方に熟知した人ならば、用法容量をまもって適切に使用できるかもしれない。
だが慣れてない人は、そのスーパーマッチョになった自分の全能感に酔ってしまう。
何が危険で、何が危険でないかが直感的にわからないからだ。

その全能感が、強化された自己の限界を見誤らせて、

ツキノワグマと素手で格闘するような──
裸で雪山に挑むような──
うっかり頸動脈を傷つけて、そのまま気づかずに失血死するような──
あるいは、軽く振り回した手が通りがかりの人を粉砕するような──

端から見れば、まるで無謀としかいいようのない悲劇に、ネット上の事故に発展してしまうのではないだろうか。

リスクの可視化
リスクを伴う行為には、それ相応の危機感を可視化する必要があるのではないだろうか。
ちょうど削除時のアラートのようなものだ。
あまりにセンシティブな情報やなどを公開するときに、それが直感的に危険なのではないか?と思わせるシステム。
そういったものが必要ではないだろうか。

リスクを示唆するシステムがなければ、初心者の炎上は発生し続けるような気がする。
自分の行為が、破滅と隣り合わせの危険な遊びであることが、適切なフィードバックなしには決して理解できないからだ。
また燃やしている側── 風説をバラまいたり、嫌がらせをするような人々も同じで、自分がどんなリスクを負っているのか理解する術がないのだと思う。

だからカジュアルに炎上する。

この辺の構造を、インターフェースでスマートに解決できないかなぁと思うのだけど、なかなか思いつかない。

とか徒然と思ったので忘れないようにメモ。